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我が家のおやつ

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 時代の流れと共に様々なおやつを口にします。 私の概念には、おやつは行動食か、リラクゼーションのお供であります。 母がよく作ってくれたおやつで、私が母となってからは、娘達に作ってきたおやつを紹介します。 【やせうま】 小麦粉で作った平たい麺を茹でたものに、きな粉と砂糖をまぶした食べ物です。 現在は、市販の乾麺を使用しています。     麺を茹でて冷水で冷まします。  きな粉と黒糖を同量と塩少々にまぶします。 出来上がりです✨ 〜〜〜由来〜〜〜 平安時代に、都から藤原鶴清麿という 幼い貴族が豊後の国に下向し 黒野(現在の由布市浅間町)に隠れ住んだ。 鶴清麿の身の回りの世話をする乳母は、 京都の野生出身だったらしく 「大原八瀬(やせ)」と呼ばれた。 八瀬は、若君のおやつに小麦粉をこね、 薄く伸ばして茹で、きな粉をまぶして 差し上げたところ若君は大喜びで 「八瀬、うま、八瀬、うま」 (うまは幼児言葉のまんまです。) とねだった事に由来するするそうです。

機嫌良く過ごす

" 誰かの為にお役に立てれば幸いです" このフレーズは私のモットーで、子供の頃から意識して実践して来た事です。 わかりやすく言えばボランティア活動でしょうか。そこには、賃金とか利益とかは発生していませんが、それを遥かに上回る幸福感が得られます。 私がブログを書いたり、SNSを通して写真や動画を投稿しているのも、私にとっての喜怒哀楽全てが、少しでもどなたかのお役に立つのであればと願っての事です。 それとブログやSNSを通して、自身の人生のスキルアップになるとも思っています。 生育歴は、性格そして人格を決定的にするものです。 幼少期から随分長い期間、携わる人達から褒められる事の少ない時を経てきた様に思います。 琴絵は字が汚い。絵が下手だ。運動音痴。器量が悪い。頭が悪い。 私が子供の頃に周りの人達からよく言われた言葉が、中年になった今でも引っ掛かり、何とかそうでありたくないと努力しています。 母は、いつも褒めてくれました。 姉や弟と私と3人のことをいつも褒めてくれました。 「みんないい子、お母さんの自慢の子」と、嬉しそうに何度も何度も言ってくれました。 不平・不満・愚痴・悪口・欠点探し・・・ そんな感情より、自分が幸福で過ごせる技を教えてくれたのは、母でした。

介護日誌⑧

2014年1月19日日曜日 晴れ 「おはよう」 今朝もお父さん、調子良さそう。良かった。 「トキ子おばちゃんところに行っちくる。」 「私も行く。」 父の姉である叔母さんは、温厚で世話好きである。いつも優しく声を掛けてくれた。そんな叔母さんが好きだった。 ペットだが野良猫だか分からないけど、可愛い猫達にお土産。 「おばちゃん、いりこ、猫にあげて。」 「琴ちゃん、あんな…。」 今までにない弱音を吐く叔母だったが、まだまだ元気そう。来客も多く、妹弟(キョウダイナカヨク)と仲良く日常を過ごしている。歳をとって故郷に帰り、妹弟と和気あいあい過ごしている様子が羨ましかった。そんな仲間入りをしている父は楽しそうだ。 母が入院する病院まで検診で行ったが、「病室まであがりきらんかった。」と気遣ってくれた。 おばちゃんが入れてくれた煎茶を飲みながら、話しをしているその時が楽しかった。 家族と離れて、母の看病がはじまって辛いけど、少しでもそんな時間があったから救われたのかもしれない。 「姉さん、帰るで。」 父が言った。 お土産に、かながしらの煮付けと真鯛のお刺身をもらった。 「おばちゃん、ありがとう。また来るな。」 その足で、母の入院している病院へ行く。 父との面会で女子トークは成らず、伝達事項で明日は造影とMRIエコーね。今夜はお夕飯後絶飲食ね。 「お母さん、湿布貼り替えよう。靴下も履き替えて。緑茶、置いとくね。」 帰宅してから1人で買い物を済ませ、永遠の散歩へ給水タンクのお山まで行く。 大阪から移住して来たご夫妻と世間話をした。喉かな綺麗な環境が住み良いらしい。 お夕飯は、叔母ちゃんからの差し入れと父の好きなポテトサラダにした。私は、レタスとトマトのサラダがいいな。

古き良き時代

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今ある現状に立腹され、全てを受け入れらなれい。表情は険しく、日常生活に支障を来たす。 緊張の糸が切れ、穏やかに時が流れることを願う。 「少し側に居させて下さい。」 手の温もりが、冷たくなった心に届きますように… 人は生きている限り、幾つになってもどんな病気になっても、感情やプライドがついて回ると信じている。 少しでもお父さんとお母さんが笑顔になってくれたら嬉しかった。 昔懐かしの故郷の話しを聞かせてくれた年長者様。 「私、父も母も亡くなって居ないんです。機織りの話し、母から良く聞いていました。芸妓との繋がりなんです。」 固く閉ざされた目はパァーッと開き、ご活躍であった良き時代の頃を振り返りながら、笑顔を下さいました。 本当にいつも年長者様に感謝でございます。

お盆の時期に

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 防波堤灯台に向かう足取りは軽い。 磯の香り、波がテトラポットを打つ音。 地面に着く足から遠ざかるフナムシ達。 はしゃぐ子供の声。 リードの先は海の中。 お父さんが息子に釣りを指導している。 「ねぇパパ、リード上げなくてもいい?」 「何やってんだよ、こっちだよ。」 ちょっと厳しいパパかも… このシチュエーションは心地よい。 この子と同じ年のころ、私もこうやって時間を過ごした。 ヒューーーン。 重りが勢いよく風を切って遠くまで飛んで行く。 長く伸びた釣り糸の先に何が掛かるんだろう。 「何が釣れるんですか?」 「キスやタイです。タイは子供ばかりなので返してます。」 厳しそうなお父さんは、お子さんにキャッチ・アンド・リリースも教えていたんだ。 「素敵なパパに連れて来てもらってよかったね。」 浜辺でビーチボートに相乗りをし、キャッキャッ言いながら楽しんでいる子供達の様子を見て、子育てするならこんな環境がいいなって、何のためらいもなく考えていた。 ひぐらしとアブラゼミの鳴き声が、何だか故郷を思い出させる。 岩井での遠泳救護の仕事を終え、母の延命を祈りながら御利益があります様にと、鋸山へ足を運んだ日もこんな気持ちだったのかな。 思い出せば今でも、涙が頬を濡らします。 この時期、遠くから手を合わせています。 お父さん、お母さんと極楽浄土で仲良くしてるかしら?

外出できる喜び

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 2019年4月10日 精神科病棟生活23日目。 家族同伴で許された外出。 長女と近くのショッピングモールへ出掛けた。 鏡を見る度に、化粧っ気のない顔と荒れたヘアスタイルで気が滅入っていた。 美容室へ行き、ヘアカットとカラーをし、プチプラのコスメを購入した。 娘のお勧めランチへ行くが、これまでのように楽しくない。会話も弾まず、娘との距離を感じた。 だけど、事実は知っていて欲しい。 「お母さん、本当は統合失調症じゃないの。お父さんとね、・・・・・・。しばらく帰らないけどのんちゃんのことお願いね。」 食べたいわけでもないのに、DONQのパンを買って病院へ戻った。 4月24日 精神科病棟生活37日目。 医療保護入院から任意入院へと移行し、付き添いがなくても1人で外出の許可が出た。 但し、院内とその敷地内及び隣接した公園までの条件付で。 凄く嬉しかった。何か欲しいわけでもないのに売店に行ってみたり、院内の図書室に通ったりした。 公園では、春の野花が沢山咲いていて、外出するたびにお花摘みをして押し花にした。 5月1日 精神科病棟生活44日目。 「琴絵さん、今日から院外の外出許可をします。」担当医はそれだけを言ってその場から立ち去った。 突然過ぎて、聞き間違えじゃないかと何度も何度も担当看護師に確認した。 私は引きこもりが苦手な性分で、散策やトレッキングを兼ねて出掛けた。 5月11日 精神科病棟生活54日目。 電車会社主催のハイキングがあり、隣接した公園出発で、日野誕生院→一言寺観音→醍醐寺→長尾天満宮→醍醐天皇陵→隨心院→大善寺→MOMOテラス→帰院のコース約13キロのハイキングを堪能した。 その翌日、義母が急死し、予期せぬ外出となる。

あなたは看護師失格よ

17年前 、渡辺淳一さん執筆のエ・アロールのシナリオを思い描き、老人ホームで健康管理の勤務を始めました。 周辺には、神代植物公園や井の頭公園・三鷹の森があり、年長者様の外出アクティビティでは、四季折々の植物や美術鑑賞を楽しんだりしていました。 そんな自由な時間を過ごしている年長者様は闊達で、日頃の身体の不調からくるネガティブな感情は、お忘れの様でした。 シナリオにある恋愛ドラマを目の当たりにする事はなく、お一人おひとりがご自身のペースで日常を過ごされていました。 現場での業務は、度重なる壁に悪戦苦闘し、寄り添うどころか跳ね除けられる日々でした。 思い通りに行かぬジレンマと向き合う年長者様達は、矛先を言いやすい職員に向けていたのです。 当時、ナースとしてのキャリアは10年程で、老年看護の経験も浅く、多くの経験を重ねた人生の先輩に対しての関わりも未熟な若輩者の私が、苦戦して当然だったと思います。 関わりを受け入れて頂けなかったり、立ち振る舞いにお叱りや助言を頂いたりしながらの日々でした。 師範学校の先生をされていた年長者様から、私の存在を受け入れて頂けて、心の内(身体の不調)をお話しして下さった時は、やり甲斐を感じました。 ある日、お預かりしているお薬のことで、ご立腹された年長者様から罵詈雑言が飛んできました。 担当医が処方している薬を飲まないと拒否し、かなり気分が高揚してしまったのです。 私に薬を預けたから調子が悪くなった、信用できないと「あなたは看護師失格よ!」と罵られました。 老年看護は奥が深くわからないことを学び、出来ないことを出来るように努力しました。 保育園に通う娘の養育と家事との両立の中で、疲れた心体から涙が溢れてきました。 そんな時、現場の仲間がいつも助けてくれました。 だから、年長者様に寄り添うことを続けられたのです。 亡き年長者様が教えてくださった全ての事柄が、私の財産であります。