投稿

1月 17, 2021の投稿を表示しています

ホットライン

26年前、 阪神・淡路大震災が起きました。 当時、私は二次救急の指定病院で勤務していました。名神高速道路のインターチェンジ近くで、工業地域でもあった為、外傷の患者様が来院される事が多かったです。まだ新米ナースだったので、仕事を覚えるのが必死なのと、目紛しく変わる業務に毎日ドキドキしながら勤務をしていました。救急当直はドクター1名ナース1名で、救急の患者様の診療に当たります。診察して処置や手術をしたり、入院して治療を行ったりします。二次救急の病院で対応出来ない場合は、高度な救急医療を提供出来る三次救急の指定病院へ搬送して頂きます。 今から26年前の震災の日、私は救急外来当直の勤務でした。当直明けの5時50分頃、院内が大きく揺れました。機材がガタガタと揺れ、転がったり倒れたり。薬品棚からは、点滴や注射の薬剤のアンプルやバイアルが転がり落ち散乱していました。直ぐに救急隊からのホットラインの電話が鳴り響きました。次々に怪我をされた患者様が搬送されて来るのです。外傷された方で、自力で救急外来に来られる方もいらっしゃいました。待合室は、外傷を負った患者様がお待ちです。とてもドクター1人とナース1人では追いつきません。救急隊の方が応急手当てをしてくださっていました。 一瞬にして起きた天災で、勤務体制が変わりました。地震の影響で阪神高速道路3号神戸線が倒壊し、それに伴い一般道は大渋滞、遮断されている区間もあり、神戸・大阪方面からのスタッフの勤務に支障が出ました。被災地にボランティアへ行くスタッフもいました。 震災の日、夜勤明けで自宅に戻ると、飼育していた熱帯魚が被害に合い、テレビが壊れていました。地震当日から数日間テレビを観ずに過ごし、はじめて神戸の悲惨な映像を見た時は衝撃でした。 その後、伊丹空港から飛行機に乗って大分の実家に帰省したのですが、上空から見た大阪の街は、建物の屋根にブルーシートがたくさん掛けられていました。一生忘れることのない記憶となりました。 震災で、そして震災が原因で御逝去された方々のご冥福をお祈りいたします。