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体は運動 心は静養

 体は休みがちだが、心は動かし過ぎ。 リラクゼーションを取り入れながら、健康的に身体を動かしたいと日々努力でございます。 気の合う仲間と「幾つになっても勉強ですよね。」なんて愚痴をこぼしながらも、トークが弾みます。 ★漸進的筋弛緩法について 筋肉の緊張と弛緩を意識的に繰り返し行うことにより、身体をリラックスへと導く。 疲労,憂鬱の低下。 代謝を高め、疼痛の軽減。 集中力改善、精神修養、自己肯定感の増加などの効果が期待される。 ★インターバルウォーク 早く歩く3分、ゆっくり歩く3分を15分間、繰り返し行う事で、筋力、持久力を無理なく向上させることが出来る。また、骨密度の増加や生活習慣病リスクの改善の効果がある。 ※ご興味のある方は、詳しく書かれた本やサイトがいろいろありますので、お調べください。

余命宣告

 2014年1月 ロッキングプレート固定のオペ後、リハビリも順調で、暇を持て余した母に、身体の隅々まで検査をしてもらったらと提案したのでした。採血やレントゲンは勿論のこと、CT・腹部エコーに胃カメラ・大腸ファイバー等。結果、腫瘍マーカー(CEA14.4/SCC19.9)が高値。消化器科・泌尿器科・婦人科領域の進行ガンの診断でした。余命も申告され、1日も早く手術が出来る様に連携が取られました。手術予定の医療センターへ手術前の検査に何度か足を運びました。骨折から1ヶ月半、入院治療を終えた母は、父の待つ自宅へ帰宅しました。 母の骨折の看病だけではなく、ガン治療と残された余命に寄り添うという大役を引き受けたのでした。 「お母さん、医療センターに入院するまでに、東京に帰って引っ越しの準備してくるからね。のんちゃんと大我とさくらとで引っ越しするから。パパには、空港の近くで単身赴任してもらう。私がいない間、このカレンダーに1日あった事で良かった事を書いといてね。」 フライトナースのはじまりでした。

リラクゼーション

 1日の疲れは、好きな時間を過ごす。 フジコ・ヘミングさんのラ・カンパネラを聴きながらワインをいただく。 ずっと変わらない、このスタイル。 ねぇ、ナイチンゲールの仕事入れたから飛行機のチケット取って。 大分空港から成田空港まで近いんだよね。 いつも私の仕事をサポートしてくれたあなたへ ありがとう♡

ごはんできたよ

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 母が「ことえちゃん、ごはんよ〜」って、階段の下から呼んでいたな。今は、私が「のんちゃん、ごはんよ〜」って呼んでいる。 今日は、新鮮なお魚を京都の街中で見つけましたので、好物なお刺身にしました。 舌平目は5枚おろしにしてお刺身にしました。 ほうぼうは岩塩を振って焼きました。 〈 早い簡単美味しいレシピ 〉 ・生わかめ炒め‥お好みの味付けでどうぞ!本日は、ごま油+めんつゆ+金ごまでした。 ・ヒラタケのゆずポン酢和え‥レンジで2分チンしてゆずの皮とポン酢を和えました。 ・具沢山味噌汁‥キャベツ+小松菜+トマト+ごぼう+あげ( 野菜やあげは、切って冷凍にストックしておくと入れるだけで簡単です。) ・おからパウダーとパスタのサラダ‥トッピングはゆで卵+粗挽ソーセージ+キャベツです。

ホットライン

26年前、 阪神・淡路大震災が起きました。 当時、私は二次救急の指定病院で勤務していました。名神高速道路のインターチェンジ近くで、工業地域でもあった為、外傷の患者様が来院される事が多かったです。まだ新米ナースだったので、仕事を覚えるのが必死なのと、目紛しく変わる業務に毎日ドキドキしながら勤務をしていました。救急当直はドクター1名ナース1名で、救急の患者様の診療に当たります。診察して処置や手術をしたり、入院して治療を行ったりします。二次救急の病院で対応出来ない場合は、高度な救急医療を提供出来る三次救急の指定病院へ搬送して頂きます。 今から26年前の震災の日、私は救急外来当直の勤務でした。当直明けの5時50分頃、院内が大きく揺れました。機材がガタガタと揺れ、転がったり倒れたり。薬品棚からは、点滴や注射の薬剤のアンプルやバイアルが転がり落ち散乱していました。直ぐに救急隊からのホットラインの電話が鳴り響きました。次々に怪我をされた患者様が搬送されて来るのです。外傷された方で、自力で救急外来に来られる方もいらっしゃいました。待合室は、外傷を負った患者様がお待ちです。とてもドクター1人とナース1人では追いつきません。救急隊の方が応急手当てをしてくださっていました。 一瞬にして起きた天災で、勤務体制が変わりました。地震の影響で阪神高速道路3号神戸線が倒壊し、それに伴い一般道は大渋滞、遮断されている区間もあり、神戸・大阪方面からのスタッフの勤務に支障が出ました。被災地にボランティアへ行くスタッフもいました。 震災の日、夜勤明けで自宅に戻ると、飼育していた熱帯魚が被害に合い、テレビが壊れていました。地震当日から数日間テレビを観ずに過ごし、はじめて神戸の悲惨な映像を見た時は衝撃でした。 その後、伊丹空港から飛行機に乗って大分の実家に帰省したのですが、上空から見た大阪の街は、建物の屋根にブルーシートがたくさん掛けられていました。一生忘れることのない記憶となりました。 震災で、そして震災が原因で御逝去された方々のご冥福をお祈りいたします。

母の看病と父の介護が始まった

 当時の携帯電話は、TH171/KYOCERA が重宝していた。あの当時、携帯電話でLINEをするとか、写真を撮るとか想像もしなかった。 何か困った事があれば連絡してください。そう言って私に名刺を渡してくれた。 2014年1月6日 部長さんをお願いします。 ご無沙汰しています。突然ですみません。今、大分の実家に帰省中なんですが、母が腓骨骨折をして入院したんです。整形外科の常勤医はいなくて、オペは週に1回だけなんです。プレートを手配して頂けませんか?オペ日は水曜日なので出来ればそれまでにお願いします。 ネットワークはスピーディーで、母の腓骨骨折のオペは無事に終わった。 オペ後、母は「点滴の針が痛い。足は動かんけど、上から半分は動くから走って帰りたい。」と笑顔で私に話してくれた。 病院を後にした私は、母の入院に必要な物品を求めてホームセンターに立ち寄り、その足でお夕飯の準備にスーパーで買い物をして帰宅した。 「お父さん、お母さんの手術無事に終わったよ。」 自宅で待つ父は、心労からか動悸や不整脈が酷いと訴えていたが、安静にしていて症状も消失した様だった。私の帰宅を待つ傍ら、お夕飯に鰤のお刺身と、りゅうきゅう(大分の郷土料理)を作ってくれていた。 「ことちゃん、永遠(ペットの犬)におやつと餌あげたで〜。今日は早よ寝よ。」と父の声は穏やかだった。 昨日、東京に帰らせた高校3年生と小学4年生の娘達のことが気がかりになり、ゆっくり休めなかった事を覚えている。

感謝

 《 母の闘病生活を支えてくださった関係機関 》 別府医療センター 大分下郡病院 上人病院 リハビリテーションはなみずき サンライズ酒井病院 国東市民病院 特別養護老人ホーム桜蘭 新別府病院 黒木記念病院 ※ 母の闘病生活を支えてくださった医療介護スタッフの皆様、ありがとうございました。