手放した夢

 故郷国東で両親の介護をしながら、夫と自営ができるように、地元の仲間に相談し協力してもらった。

地元の関係者は、幼少期から贔屓目にされた同級生に、私の身代わりをさせたのだろう。

blogを乗っ取り、SNSでなりすまし、携帯電話やパソコンから個人情報を抜き取ってコピー人材を作ったのかもしれない。

学校教員から個人的感情での、乱雑な扱いの教育を受けている事を誰にも言えずに進級した。

学校教員がターゲットにした生徒を乱雑に扱えば、クラスメイトは先生を見習う。

小学生も最後の学年で、私は、無視か罵詈雑言の会話での学校生活を送った。

頭の中は日々、混乱、思考力低迷であった。

もはや、学校の授業や成績なんてどうでもいいと思っていた。

クラスで派閥にあっている事を両親に知られるわけにはいかない。

何とか学校に行かなければ、父も母も心配する。

気を紛らわせる為に、図書館に入り浸った。

本を読んでいると余計な事を考えなくてもいい。 

海岸に行って、飛行機やホバークラフトの離着陸の騒音の中、大きな声で歌っていれば、気が紛れる。

自分の気持ちに逆らってやり過ごしていると、体調が悪くなった。

学校に行ってからの腹痛や眩暈、吐き気、過換気症候群が私の体を苦しめた。

そんな症状があっても、学校の先生は、冷たく罵った。

ため息ひとつついても、やる気が無いと言われ、どんなに辛い事があっても、誰にも相談する事が出来ないと学んだ。

だから、セラピストの道を選んだのだろう。

そんな時期、贔屓目にされた生徒は、先生や同級生の人気者であった。

この頃から、ひとりでいる時間が楽しく思えるようになった。

いつもひとりでいて平気な私を見て、商店街の娘は、「友達おらんの?」と言った。

その時に何と答えたかは忘れたが、私には友達は不要で、自分が活動する為の仲間がいれば充分である。

中学生になって、学童支援活動(現在の学童クラブ)で、教育委員会の関係者が主体となって活動している、ジュニアリーダーのボランティア活動に参加するようになった。

この頃から、誰かの為に活動して誰が喜んでくれたら嬉しかった。

嬉しいと言う感情は持続したいもので、その頃の思いは、今も何ら変わらない。

故郷で、両親の介護をしながら、そんな活動が出来たらと頑張ってきたのも事実である。

私の痛んだ心の治療をしてくれたのは、医者でも心理療法士でもなく家族である。

学童支援事業で、クリエターの講師がスキルを生かして、パソコン教室の先生が出来たらと仲間に相談した。

両親が亡くなって、家族にバラバラになって、今、私は京都で、サイバー犯罪の事実を伝える為の活動をしている。

理想と現実はイコールにはならない。

執筆者:坂田琴絵


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