母を護るために
城下町杵築市で生まれ育ち、戦争で実母を亡くし養女となった。
戦後の物のない時代は、遊ぶ時間より学業と家業の手伝いに没頭した。
継母から厳しい教育を受けたことが、大人になった母の心を苦しめていたのだろう。
受け入れがたい抑圧された学童期を過ごし、やりたかったお稽古事を身に付けるために故郷を後にした。
高度経済成長期に良き仲間に恵まれ、”芸は身を助く” と名古屋で花柳流の舞踊の芸を身につけ、芸妓としておもてなしを職業としていた。
三十路近くになって、養子となった両親から大分に帰って結婚をする様に説得された。
当時、国東の大所帯の地主で、マグロ漁船に乗り漁師を志願した、坊ちゃん育ちの父と母はお見合いをした。
芸妓上がりで養女というだけで、母は祖母や叔父叔母から邪険に扱われていた。
親兄弟に散々小言を言われ帰宅した父は、母に冷たく当たった。
アル中男が父の留守中に家へ上がり込んでは、母に罵声と暴力でストレスを発散していた。
誰もその現実を改善しようだなんて思わなったのだろう。
”長い物には巻かれろ” 弱い者は強い者の味方になる。
家族が寝静まった茶の間で、母が泣いて過ごしている様子を鮮明に覚えている。
疲弊する母の背中を見て育った。
母は何があっても寝込むことなく、翌朝にはお味噌汁を作って「ちゃんとご飯を食べないと勉強が出来ないから、少しでもいいから食べなさい。」と学校へ送り出してくれた。
体調が良くないときは、このお茶を飲むと調子が良くなると、漢方のお茶(ハーブティ)を飲んでいた。
坊ちゃん気質の父はお人好しで、言われるままに騙されて保証人になり、多額の借金を負った。
サラ金屋からの電話で、居留守中の父はいないと伝えると「お嬢ちゃん、お父さんにお金払うように言うといて。」とドスの効いた声で伝言を聞いた。
時には自宅まで押し掛けたチンピラ風のサラ金屋のおっさんが、家に上がり込んでは返済を要求した。
「ねぇ物はねぇんじゃ。」と、父はサラ金屋に焼酎をぶちまけていた。
怯んだチンピラ風のサラ金屋は二度と来なかった。
自分が見た情景が、コントの様なワンシーンの連続であり、非日常過ぎて誰にも話せずに大人になった。
豊後水道での捕獲量も少なくなり、船頭や船乗りで手伝ってくれた仲間も離れ、母は家計を助ける為に昼夜と働いた。
そんな環境の中でプラスの贅沢など出来るはずもなく、学習塾に通わせてくれた事が最大の贅沢な時間だと感謝している。
高校生になれば、欲しい物も増えてくる。
親に言ったところで欲しい物を買ってもらえるわけもなく。
悪い意味でのパトロン的な人がいるわけでもなく。
内輪での家業の手伝いで、小遣いや教材費を賄った。
自分で働いたお金で、はじめてストロベリーチョコレートを買った時、CDが買えた時は嬉しかった。
母から「琴絵ちゃん、お小遣いあるんだったら、授業料出しといて。」と言われた時は、未成年の学生なのに…と納得いかなかったが、授業料も支払わずに学校に通うなんて恥ずかしくて、茶封筒にお札を入れた。
高校生で良い大人に囲まれ、「いいか琴絵、これからは友達じゃなくて仲間(ブレーン)を作れ。」と、誕生日を祝ってくれた。
母が舞踊を通じて所作を教えてくれた。
母が音楽の楽しみを楽器で教えてくれた。
母が音読を聞いてくれた。
母が字を丁寧に書くことを教えてくれた。
母が食べることの大切さを教えてくれた。
母が家族を大切にすることを教えてくれた。
母が嫌なことから逃げ出さない方法を教えてくれた。
お母さんが、酷いいじめの対象になっていることに気付いていたのは私だけ。
他の人は知っていても見て見ぬ振りか協力者。
母は何もしていない、何も悪くない。
「〇〇は、いつも小言ばかり言うんよ。」
「〇〇は、黙って何でも持って行ってしまうんよ。」
「〇〇は、いつも引っ掻き回していくんよ。」
「〇〇は、乱暴な事もしたけど、今は気のいい人になったんよ。」
「・・・、・・・・、・・・・・。」
母が余命宣告され死に向き合う時、少しでも安楽な時間を過ごして欲しいと願った。
大切な家族と離れ、母の臨終に寄り添う決心をした。
望まない面会をシャットダウンして。
なのに…
母は、終末期を人生で最も苦しみ悲しみ死んでいった。
そのことを父はわかっていた。
執筆者:坂田琴絵
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